人としてなすべき道については、昔の聖人や賢者らが大方言い尽くしており、やり尽くしてもいる。現代の学ある者といっても、その多くは古人の著作を見て口真似をするばかりで、別に新しい見解を出すわけでもなく、すぐれた見識があるといっても、古人を凌ぐものではない。そういうわけだから、先生や生徒と言っても、皆ともに昔の聖人賢者の弟子に過ぎないと言えよう。 同じ弟子の間柄でしかないのに、みだりに先生と呼び、生徒と呼んで分けるようなことは、第一、昔の聖人賢者に対して、恐れ多いことではないか。


私は、君たちに教え授けることは出来ないが、君たちと一緒になって、研究しようではないか。

新しい塾が初めて設立されると、生徒の皆がこの道に従ってお互いに交流し、病気や艱難に対しては助け合い、力仕事や事故の際は、互いに苦労して力を出すさまは手足のようであり、骨肉のようでもあった。



道は古聖賢大氏云ひ尽せり、行なひ尽せり、今の學者多くは其の書を観て口真似を爲すのみ、別に新見卓識古人に駕出するに非ず。 然れば師弟共に諸共聖賢の門人と云ふものなり。 同門人の中にて妄りに師と云ひ弟子と云ふは、第一古聖賢へ 對して憚り多き事ならずや。

『教授は能はざるも、君等と共に講究せん』

「新塾の初めて設けらるるや、諸生皆此の道に率ひて以て相交り、疾病艱難には相扶持し、力役事故には相勞役すること手足の如く然り、骨肉の如く然り。」