ここで少し寄り道して、江戸時代後半、十善の重要さを解いた慈雲尊者に触れておきたいと思います。
慈雲は、もともと真言僧でありましたが、他宗派はおろか儒学をも学んでいます。 仏教戒律の最も根本に当たる十善を重視し、正法律を提唱しました。 その主著である「十善法語」の序文に当たるのが、「人となる道」でして、ここには十善の精髄が説かれています。
現代人はせっかちなために、何ごとも頭で理解しただけで、わかった、わかったとして実践が何も伴わないまま、先に進もうとしがちであります。私などは、今は年齢を食ってしまったこともありますが(苦笑)、なおさら先を読み進めようとする思いが強いです。 しかしながら、ここで説かれている十善は、いつの時代にも人間が人間らしく生きるために最低必要な倫理項目です。 これらを守ってさえいれば間違いない。しかし、ちゃんと守れているかと問われると、一生かかってもそこまでの人格に達するかどうかは怪しいぐらいです。
もちろん、ずっとここに立ち止まるわけにも参りませんが、素通りせず痕跡ぐらいは残しておきたい。
以下に、「人となる道」の序文だけを載せておきます。
人となる道、この人と共に云べし。このみちを全くして天命にも達すべく、佛道にも入べきなり。十善あり、世間出世間におし通じて大明燈となる。十善とは、身三口四意三なり。不殺生、不偸盗、不邪淫、これを身の三善業と云。不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、これを口の四善業と云。不貪欲、不瞋恚、不邪見、これを意の三善業と云。此中伝戒相承の義あり。上品の護持は天上および輪王の徳なり。中品の護持は万国諸王の位なり。下品[げぼん]の護持は人中豪貴の果報なり。もしは分受、もしは護持闕失あるは、小臣民庶の等級なり。小人の富栄長壽なる、王公の短命なる、或は多病なる、或は貧にくるしむ等、みな準じ知べし。余経のなかに、殺生の一戒をたもてば四天王処に生ず、殺盗の二戒を持ば、三十三天に生ずる等の文あれども、今家は如上の義を伝るなり。世善相応のなかも、此徳むなしからず。若真正にこの道による者は、諸仏菩薩も自己心中より現じ、一切法門もその身にそなはるなり。若これに背ば十悪業を成じて人たる道をうしなふ。梵網経の中、慇懃丁寧に呵したまふところなり。
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