某知恵袋で、苦心して訳したものですが、質問ごと削除されたため、元の文章がわからなくなってしまいました。おおかた、質問された方が抹消されたためでしょう。もったいないので、こちらに転記します。



現代語に訳そうとすると、現代人が使わない仏教用語は、ひとつひとつ説明しなければ意味が通じないので、解説することになります。いろいろ解説を交えていくので、結局、正解などではなく、私個人の解釈にしかならないことをお断わりしておきます。

なお、ここで注意すべき仏教用語として、
観応、法身、応身、無相
などがあります。



およそ世俗の人であろうと出家した人であろうと、また知恵があろうと無かろうと関係なく、その人なりの方法で仏にお仕えし、お経を読みなさるのがよろしい。

そうして、仏を信じる心を清浄に保って、精魂込めて誠意を尽くすならば、御仏からの応答を受けないことはない。(必ず受けられる) ところが、御仏を信じる心が無く、怠けていて、お勤めをおろそかにするならば、御利益を得られず、そのままである。そういうわけだから、自分の信心が至らないでいるかどうかを振り返って反省しなければならない。仮にも、仏菩薩をお恨み申し上げたりしてはならない。

すべて仏には真の身体である真身と、衆生に応じて現れる応身との2種の身体が備わっている。また、衆生には迷いの心である妄心と智慧を求める心である智心とがある。仏の真の身体というのは、特定の姿かたちがなく常に存在し続ける法身、すなわち仏の真理そのものの姿である。これに近づこうとするならば、迷いの心である妄心をもって臨んではならない。仏の智慧を求める智心がこれを写し出すのだ。特定の姿かたちも無く、いかなる邪念にもとらわれない状態を、智心を通じて観ずるようにして、その思いが仏の理法と相応する時に、仏の真理そのものの姿である法身に近づけるだけの意義が生じるのである。